用賀の歴史

活気のある商店街と豊かな自然が残る用賀。

商業と緑と宅地という魅力的な住環境がどのようにして生まれたのか、その歴史をご紹介します。

『用賀の起こり』

16世紀後半、後北条氏(小田原北条氏)の家臣であった実力者、飯田図書(ずしょ)が現在の用賀四丁目に瑜伽山真如院真福寺を開基し、法印宗円和尚が開山をしました。門前町としての用賀の始まりです。

用賀の地名の由来は、真福寺開基より以前、真言密教の瑜伽(梵語でヨーガともいわれる)道場がこの地にあったからという説が有力です。

『宿場町の様子』

江戸時代、用賀村を通る大山街道は、相模国大山阿夫利神社へ通ずる参詣のための道でした。道中に鎌倉や江ノ島があることで当時のレジャーという一面もあり、用賀村も宿場町として栄えていました。旅の支度に必要な雑貨を売る店や茶屋などが立ち並び、大山詣でに行き交う人々の賑わいが想像できます。

『玉川全円耕地整理』

用賀を地図で見たり、実際に訪れたりすると、その一帯が碁盤の目のように区画整理されていることに気付くでしょう。これは「玉川全円耕地整理」事業の賜物です。

明治40年に玉川電気鉄道が通ったことにより電気が普及し、都市から移住する人が増えてきました。隣の大田区調布村(田園調布)では、すでに宅地造成が行われ、高級住宅地として開発が進んでいました。一方、用賀を含む玉川村では宅地造成をしていなかったために、土地が安値で売買されていたのです。

そこで、村長の豊田正治を中心に、村が近い将来住宅地になることを見込んでの宅地造成事業「玉川全円耕地整理」を計画、大正12年1月に事業決定されました。同年9月に起こった関東大震災で東京の下町が焼け野原になったことも、人々の郊外への移住を加速させました。反対運動や資金難などの困難を切り抜け、「玉川全円耕地整理」は日本の都市計画においても非常に歴史的な価値のある大事業となったのです。

『砧公園』

戦前、大都市化が進む東京では、東京緑地計画という都市計画が立てられました。砧公園の元となる砧緑地もその中の一つでした。戦争が始まった同じ時期に整地されたことで、広大な緑地が軍事訓練場、食糧の生産などに使用されました。戦局が厳しくなっていった戦争末期には用賀周辺も激しい空襲を受け、緑地に作られた防空壕が人々を守る避難場所となったのです。

戦後は、都民が楽しめる様々な施設を備える場所として、公園関係者の努力により整備が進められました。

用賀はこのような歴史を経て、現在では渋谷から東急田園都市線で11分という近距離ながら、砧公園をはじめとする、緑が多く残る環境がファミリーに人気の住宅地となっています。

記事作成日:2015年11月22日 最終更新日:2017年07月23日