東条英機私邸跡

江戸時代は田畑が広がる農村で、多摩川や国分寺崖線といった川、丘、谷の起伏が作り出す風光明媚な景勝地として人気があった世田谷。明治時代の終わりには、その美しい景色を求めて多くの政治家や実業家などの富裕層が居住するようになりました。

明治40年に玉川電車、その後昭和初期にかけて京王電車、小田急線などが次々と開通し、同時に住宅地の開発も急激に進みました。第40代内閣総理大臣であった東条英機(1884年―1948年)も世田谷の用賀に私邸を構えた一人です。

東条英機私邸跡へのアクセス

東急田園都市線用賀駅の東口から徒歩で約10分、国道246号線と首都高速3号渋谷線が交差する四つ角を渡った場所が東条英機の私邸があった用賀1丁目です。

現在は宗教法人の立正佼成会世田谷教会になっていて家屋敷は残っていません。1ブロック先を左折し教会の裏手に回ると、道路と生垣の間に「東条英機邸跡」の石碑が建立されています。

東条英機と用賀

軍人であった東条英機は昭和15年(1940年)に陸軍大臣に就任、昭和16年(1941年)10月18日から昭和19年(1944年)7月22日まで第40代内閣総理大臣を務めました。

昭和16年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争が開戦。東条英機は内閣最高責任者、陸軍大臣、軍需大臣など複数の役職を兼務していたため首相官邸にいることがほとんどでしたが、休日には用賀の邸宅で家族と過ごしていたそうです。

戦局は次第に厳しくなり、昭和19年7月18日に東条英機内閣は総辞職、翌年の昭和20年(1945年)8月15日に太平洋戦争は終戦を迎えました。

退陣後は用賀の邸宅で家族と暮らしていた東条英機でしたが、敗戦した日本が連合国の占領下に入り、戦犯として逮捕されることを前に拳銃自殺を図りました。しかし、東条英機の自殺を警戒し、用賀の邸宅を取り囲んでいた連合国軍の憲兵隊によって救急処置が取られ一命をとりとめました。

その後、戦争犯罪人を裁く「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で戦争の首謀者、A級戦犯として絞首刑の判決を受け、昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨拘置所で刑が執行されました。64歳でした。

東条英機が自殺を図った時、用賀の邸宅の周りには連合国の憲兵隊だけでなく、多くの外国人記者が集まっていたということです。

「東条英機私邸跡」は、現在の静かな用賀の街が生々しい歴史の舞台となった場所であることを教えてくれます。

「東条英機私邸跡」
住所:東京都世田谷区用賀1-10-24
最寄り駅:東急田園都市線用賀駅東口

世田谷区用賀1-10-24

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